11月10日放送NHK大河ドラマ「光る君へ」(43回)の中で三条天皇が病回復の祈願のために比叡山延暦寺に参詣する場面が描かれております。最後の解説の中で「源氏物語」「夢浮橋の巻」の石碑(横川の僧都遺跡)が紹介されております。遺跡は本堂の隣接する場所にあります。源氏物語の夢浮橋の巻で僧都が明石中宮の女一宮の病の病気回復のための祈祷をされております。まさに「夢浮橋の巻」と「源氏物語」の内容が一致する場面です。紫式部が実際の天皇の姿をみて書いていることがわかる場面でした。
自筆「源氏物語」の「夢浮橋(ゆめのうきはし)」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。
原文は「源氏物語・夢浮橋の巻」として美しく描かれている
自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。
したがって、出品した自筆「源氏物語」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。 大炊御門宗氏の長男・信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け准后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母・皇太后となる。現在の今上天皇と系譜がつながっている。
関白・近衛基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女・常子内親王と結婚。二人の皇女・熙子(ひろこ)は、甲府藩主・徳川綱豊と結婚。綱豊は、のち第六代将軍・徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は将軍家宣の正室となった。近衛基熙は、千利休の孫・千宗旦との茶会の交流(下記に掲示)で知られると同時に、第111代・後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶会を開催。茶会の際、基熙が所蔵する藤原定家・自筆の「定家色紙」を持参した記録がある。基熙は、他にも朝廷・幕府の間で茶会を何度も開催した記録が残っている。(資料の記録は下記に掲示)
出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。
自筆「源氏物語」の書の特徴から高松宮系統と称されるものです。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん・天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。また、各巻ごとの書かれた年については不明。従って、応永五年とは、書き始めの年である。また、落款から、後年、近衛基熙(1648~1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室・方子の所蔵となったものである。近衛家で永く保存されておりましたので、保存状態は極めて良好です。
大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実・治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創立された。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門(おおいみかど)」を称する。初代、経実の子経宗は平治の乱で平清盛方の勝利に貢献。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。出品した「源氏物語」の筆者・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の当主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。備前権守、参議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に内大臣に昇任した。
旧・所蔵者の近衛基煕は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに出雲松平家に伝わり、松平治郷の正室・方子が鑑賞していたものです。近衛基熙が所蔵する自筆・「源氏物語」の中で、最も美しく繊細な筆致で記された平安時代の文字に最も近いとされております。数ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と称される貴重な自筆です。
出品した「源氏物語」は夢浮橋(ゆめのうきはし)の内容の要旨
「夢浮橋の巻」は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第54帖。薫の君は比叡山の奥・横川(よかわ)を訪ね、小野の里で出家した女について僧都に詳しく尋ねた。「その女は浮舟(桐壺帝の皇子・八の宮の姫君)に違いない」と確信した薫の君は夢のような気がして涙を落とした。その様子を見て、僧都は浮舟を出家させたことを後悔した。薫は僧都に浮舟のいる小野への案内を頼むが僧都は「今は難しいが来月なら御案内しましょう」と述べる。薫は浮舟への口添え文を僧都に懇願して書いてもらう。その夜、横川から下山する薫の君一行の松明の火が、浮舟がいる小野の庵からも見えた。 僧都の妹尼たちが薫の君の噂をする中、浮舟は薫の君との思い出を払うようにふるまう。
原本自筆上部には、「廻眸一笑百媚生」《眸(ひとみ)を廻(めぐら)らして一(ひと)たび笑えば百媚(ひゃくひ)生じ》という漢文の篆書印が押捺されている。白楽天の有名な漢詩です。絶世の美女楊貴妃を詠ったものです。言葉の意味は、「(楊貴妃が)くるっと振り向いてにっこり笑えば匂いたつ美しさが華やかである」 というものです。紫式部が「夢の浮橋」を書くに際し、白楽天の漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。詳細な理由は下記説明欄に記載。
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)
大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧蔵の来歴については下記「説明欄」に記載
《「源氏物語」夢浮橋(ゆめのうきはし)の巻》
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)
「自筆原本」
自筆右下の2つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子・と娘の幾千姫(玉映)の落款。
自筆上部に「廻眸一笑百媚生」《眸(ひとみ)を廻(めぐら)らして一(ひと)たび笑えば百媚(ひゃくひ)生じ》という漢文の篆書印が押捺されている。白楽天の有名な漢詩です。絶世の美女楊貴妃を詠ったものです。この漢文は白楽天の漢詩の有名な漢詩一節です。
《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです。》
自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)
自筆が「古切」とされたのは江戸時代。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載
(1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。
《「源氏物語」夢浮橋(ゆめのうきはし)の巻》
《はし(端)に出ゐ》・・・・たり。「おはしますにかあらん。
御せん(前)なといとおほ(多)くこそみ(見)ゆれ。
ひる、あなたにひきほし奉れたりつる返事に、『大将殿おはしまして、
御あるし(饗応)のこと(事)、にはかにするを、いとよきおり(折)』
とこそありつれ」。「大将殿とは、この女二の宮の御おとこにや
おはしつらん」なとい(言)ふも、いとこの世とをく、
ゐなかひたるや。まことに、さにやあらん。ときとき(時々)、
かゝる山路わ(分)けおはせしとき(時)、いとしるかりし
すいしん(随身)のこゑ(声)も、うちつけにまし(交)りてき(聞)こゆ。
「月日のす(過)きゆくまゝに、むかし(昔)のこと(事)かく思ひ
わす(忘)れぬも、今はなにゝすへきことそ」と・・・・《心うけれは》
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。
《「源氏物語」夢浮橋(ゆめのうきはし)の巻》
《薫の君、僧都を訪問し浮舟(桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君)生存の噂を確かめる》
《浮舟(桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君)松明(たいまつ)を灯して過ぎる薫の君の一行を見る》
《軒端からいつも遠くまで見やられる谷あいに、特に注意して
前駆を追う声がして、ほんとに数多くともした松明(たいまつ)の灯の
ものものしい光が見えるとあって、
尼君たちも端(はし)に出て)・・・・・すわっている。
(僧都の妹の尼君)「どなたがお通りになるのでしょう。
御前駆などがじつに大勢見えますこと」
(尼君)「昼間、お山にひきぼしを持たせてあげた返事に、
大将(薫の君)殿がおいであそばして、急にご接待をするので、
ほんとにちょうどよい折です、とのことでした」
(尼君)「その大将(薫の君)殿とは、今上の女二の宮(今上天皇の女二宮)の
ご夫君でいらっしゃいましたかしら」
などと言っているのも、まったく世間離れして田舎(いなか)びた様子ではないか。 (浮舟・桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君)「じっさい大将(薫の君)殿
にちがいなかろう。大将(薫の君)殿がときどき、ここと同じような
山道を分けて宇治にお越しになったときの、まさしくそれと
思われた随身(ずいじん)の声も、ふと中にまじって聞えてくる。」
と女君(浮舟・桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君)は思う
月日の過ぎていくのにつれて、忘れてしまうはずの昔のことが
こうして忘れられないでいるにつけても、いまさら
どうなるものでもないと情けなく思わずには・・・・《いられないので、
女君(浮舟・桐壺天皇の皇子・八の宮の姫君)は、阿弥陀仏を
念ずることに気をまぎらわし、いつにもましてものも言わずにいる。》
備考・高貴な女性の出家は長髪を肩のあたりで切り揃えるだけである。
現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没)
備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。
《The Floating Bridge of Dreams(夢浮橋)》
What might this commotion mean? the other nuns were
asking as they came to the veranda.
"Whoever it is, he certainly does have himself a big escort.
When we sent that seaweed to the bishop this morning,
he said in his note that we couldn't have picked a better time.
He all of a sudden had a general to entertain, he said.
Which general do you suppose it could have been?"
It was the sort of talk one hears in remote, unfrequented places.
"The general that is married to the Second Princess?"
The girl knew who it would be; and there among the voices
of the outrunners, unmistakably, were some she had heard
clearing the mountain path to Uji.
What could be the profit, after all that had happened,
in remembering?
英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』
Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)
《夢浮橋》
那些尼僧便走出檐前来看,其中一人道:
“不知道是下山来,随从人多得很。
昼送干海藻到僧都那里去,回信中大将在横川,
他正忙于招待,送去的海藻正用得着。”
一尼僧:“他所的大将,就是二公主的?”
正是僻壤的田舍人口气。
浮舟想道:“恐怕是他了。
从前他常走山路到宇治山庄来,
我听得出几个很熟的随从人的声音,分明在里。
多日月去了,从前的事不能忘。
但在今日有何意?”
中国訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』
豊子愷(ほうしがい)中国最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没)
左の写真が「源氏物語」夢浮橋の巻の末尾(原本番号17-B)の押印。
写真左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)
家紋印の上の2つの印は仙台藩主第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)。冬姫は内大臣・通誠の養女。
冬姫は通称。正式な名は伊達貞子。
上部には、「假色迷人猶若是」(仮の色、人を迷わす、なおかくのごとし)という漢文の篆書印が押捺されている。
言葉の意味は、「狐という仮の物が本物のように人を惑わせる。しかし、本当の美女(楊貴妃)が
人を魅了するのは、往々にしてそれを超える」のです。この漢詩は白楽天の漢詩の有名な一節です。
篆書体右の二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)と娘・玉映の落款
右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)
(奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。)
(出品した自筆の「断層画像写真」(夢浮橋の巻)MRI 54―9A
自筆下二つの印のうち下は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」、上は娘の幾千姫(玉映)の落款
「源氏物語」夢浮橋の巻の絵の資料
下記写真は、浮舟を描いた「源氏物語・浮世絵絵図」
1番上の写真は、第103代後土御門天皇と曽祖父・大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁)
2番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。
大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧所蔵(断簡)を出品 | ||||
商品説明(来歴) |
大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の旧所蔵である。近衛基熙は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を書いてある。出品した大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに近衛家から出雲松江藩主・松平治郷(不昧公)の正室・方子(よりこ)に伝わり、方子の生家である仙台藩から同藩の藩医・木村寿禎に伝来していたものである。
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漢詩文 |
原文上部に「廻眸一笑百媚生」《眸(ひとみ)を廻(めぐら)らして一(ひと)たび笑えば百媚(ひゃくひ)生じ》
という漢文の篆書印が押捺されている。言葉の意味は、「狐という仮の物が本物のように人を惑わせる。しかし、本当の美女(楊貴妃)が人を魅了するのは、往々にしてそれを超える」のです。この漢詩は白楽天の漢詩の有名な一節です。紫式部が「夢浮橋」を書くに際し、「白楽天・漢詩集」の漢詩を熟読したうえで「源氏物語」の「夢浮橋の巻」を書いていることがわかります。この原詩の言葉の引用は、「夢浮橋の巻」に用いられていることで広く知られている。紫式部がこの原詩に親しんでいたことがわかる。
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漢詩の落款の意味 |
原本上部の漢詩の落款は、「讃」と称されるもので、古来、掛軸の書画に第三者がお褒めの言葉を書き込むもので元々は自筆でした。貴族から始まり藩主、あるいは高名な茶人や僧侶が書かれて、それが茶会の「掛軸」に装丁されて披露されておりました。
特に出雲・松江藩などの茶道の盛んな大名家の所蔵する自筆などに「讃」が付され、後に自筆に代わり、石刻による「漢詩」の篆書が「讃」として用いられました。
「茶事」は、「ヨーロッパの晩餐会(ばんさんかい)」とも言われます。晩餐会では、「ワインを楽しむために行われる」ところも似ています。とりわけ、茶室に入って行うことは、床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)することです。茶道では「掛け軸は最高のごちそう」といわれております。とりわけ、漢詩の落款は、ただ、古典の漢詩を入れればいいという単純なものではなく、たとえば、「源氏物語」の場合、原本の中に込められている紫式部が考えた知識を読み解くことにあります。
「讃」の中に有名な白楽天の漢詩を単純に落款として入れたのではなく、紫式部が原本の中に白楽天の漢詩を読み込んでいることを知ったうえで漢詩を選んでおります。
落款の「讃」の元になるその原文の個所には、 「廻眸一笑百媚生」《眸(ひとみ)を廻(めぐら)らして一(ひと)たび笑えば百媚(ひゃくひ)生じ》という漢文の篆書印が押捺されている。この漢詩は「白氏文集」に由来するものです。 つまり、原文の内容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶会における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶会を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。茶会の際に落款に記された由来を知った客が広くそのことを社会に広めたために結果的に、多くの茶会に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです。「落款」の漢詩の由来を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶会における貴重な時間であったと推定されております。 |
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自筆の希少価値について |
自筆の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。上の「拡大断層(MRI)写真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「源氏物語」の文字が記されております。 出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。 古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。 |
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断層(MRI)写真 |
従来、日本の古美術の鑑定の際の分析・解析は、エックス線写真、赤外写真、顕微鏡が中心です。一方、アメリカやイギリスでは研究が進み和紙の組成状況を精確に分析・解析をするために断層(MRI)写真が利用されており、今回の出品に際し、「断層(MRI)写真」を資料として出しました。本物を見分けるための欧米の進んだ分析・解析技術を見ることができます。 |
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寸法 |
「源氏物語」自筆の大きさ タテ21.8センチ ヨコ12.8センチ。額縁の大きさは タテ37.0センチ ヨコ28.0センチです。額縁は新品です。 |
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「源氏物語」の自筆について |
1・筆跡の分析について 国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。 一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。 2・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について 自筆の筆者は、書体、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以来、筆者名は特定されていなかった。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奥書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。それが、技術の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。 「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。宗氏は、正二位・内大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で没している。 3・自筆「源氏物語」の旧・所蔵者の特定の経緯について 近衛基熙の旧・所蔵の特定は、「花押」の写真照合技術によるものです。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。 4・近衛基熙(このえもとひろ)について 近衛基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。母は後水尾天皇皇女女二宮。実母は近衛家女房(瑤林院)。幼名は多治丸。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。 承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元禄3年(1690年)1月に関白に昇進した。近衛基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いている |
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HP |
近衛基熙・旧所蔵「源氏物語」自筆を出品いたしました。
出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。 ツイッター「源氏物語の世界」 も合わせてご覧ください。 |
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